7月のGlobal Sessionレポート(2023) (亀岡国際交流協会共催)

期日:2023年7月17日(月・祝) 10:30~12:30

場所:ガレリア3階 会議室

ゲスト:濱田雅子さん:オンラインで神戸より

コーディネーター:亀田博さん

タイトル:濱田雅子の「服飾からみた生活文化」シリーズ 第25回

   「写真が語るアメリカ民衆の装い(その5)―1890年代の民衆の生活文化を垣間見るー」

参加費:600円(オンライン参加者:無料)

 

講座のご案内

 

 2021年11月28日から『写真が語るアメリカの民衆の装い』というテーマで、濱田雅子の「服飾からみた生活文化」の講座を開催して参りました。今回は5回目(濱田雅子の「服飾からみた生活文化」シリーズ第25回)となります。本テーマでの報告は、本講座をもって最後となります。

 

本講座の資料

Joan Severa, Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and

Fashion(1840-1900), Kent State University Press, 1995, p.592

 

『写真が語る近代アメリカの民衆の装い ― Guidebook of Joan Severa: Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and Fashion, 1840-1900-―』 (株式会社 PUBFUN 2022415 日) 電子書籍 アマゾン

(濱田雅子記)

 

 

参加者(敬称略):濱田雅子、亀田 博、丸山政行、橋本裕佳子、(オンライン)、田尻悦也、張穎(ちょうえい)、児嶋きよみ、佐々木さん(国際交流協会職員) 計8名

 

自己紹介

亀田(コーディネーター:C):はしもとゆかこ(裕佳子)さんは、濱田さんのお嬢さんで、インドネシアから帰国されたのですね。だいぶん以前に爆破事件もありましたね。

橋本:2007年ですね。

亀田(C):バリは、ダンスが盛んですね。私は、ケチャックダンスが一番好きです。指がよく動く踊りですね。食べ物もおいしい物がたくさんあって、ナシゴレンが好きです。

    私は、ツアーガイドをしていますが、もう少ししたら、インドネシアに日本人もたくさん行くと思います。まだ、旅費も高いですが。直行便も大阪から出ると思います。最近、天皇陛下ご夫妻が行かれて人気が出て来ましたね。

橋本:今は成田から週5便あります。

亀田:始まりの時間になりましたので、いつものように自己紹介からしていただきます。

   丸山さんは、まだのようですから、先に橋本さんからお願いします。

橋本:濱田雅子の長女で、母がお世話になっております。デザイナーとして、服飾の道を始めて、中国のメーカーさん達とも仕事をしておりました。その中でグラフィックデザインに触れ、バリ島に行きました。11年前に帰国し、インドネシア人の夫と共に、神戸に住んでいます。

田尻:京都の京北町に住んでいて、高雄より北の方なので、ここよりは涼しいです。

   前回の2月に濱田さんのGSに参加したときに質問もしましたが、「服飾」というのは、服のことだけではなく、世界の歴史も勉強しなくてはと思いました。今日もよろしくお願いします。

濱田:大学を出てから、淡路島の高校教師として勤務し、世界史を教えていました。その後、服飾に方向転換しました。

田尻:勉強量が多くて大変だったでしょう?

濱田:言葉の勉強が大変でした。英語で読んでいくので。このGSも以前は、英語の学習教室から始まったのですよね。コミュニケーションをとろうと。

    私の場合は、英語の文献を読む必要があり、山ほど読んで今に至っています。語学は好きですか?

田尻:好きは好きです。今は会社で、外国から仕事に来ている人たちとの付き合いが多いです。フィリピンから来ている人たちも多く、優秀です。

濱田:別の国に住み、生活するのは、だれでも大変ですね。特に日本では、日本語ができないとのけものにされたりして。言語はあくまでもコミュニケーションのツールであり、自分の幅を広げていくための文化交流の手段ですね。

張穎(ちょうえい)さん:おはようございます。中国出身です。これまでに何度も濱田さんのお話しを聞かせていただきました。自分は、服のことをあまり考えないで来たのですが、服装から生活文化が見られるということを知り、おもしろくなってきました。

濱田:何を着るかだけでも、生活文化のひとつが見られますね。おもしろさがわかっていただき、うれしいです。

張穎:以前、夫がまだ健在の時に船で世界旅行をしたことがあります。その中でインドネシア料理もたくさんいただきました。ケチャックダンスも見ました。

児嶋:Global Sessionは、私は亀岡交流活動センターに在職中の1999年に開始し、2011年に退職後は、私の主宰するNPO団体のオフィス・コン・ジュントの主催として続け、今回は、365回目になります。20年以上、大体月に1回のやり方で続けています。

    私は、服の選び方については、楽しみながらやっています。朝起きる前に、今日はどの色の服を着る気分かと自分に問い、選んでいます。

 

亀田:自己紹介が大体終わりました。今日は、ありがとうございます。

濱田:今日は、おもしろい写真がたくさんありますよ。

亀田:私は、GSの初めの方から参加していて、濱田さんのGSも最初から参加していました。2013年ころから始まったと思いますが、最初のヨーロッパの服飾はとても興味がありました。ツアーガイドとして、日本人をさまざまな国に案内して来ました。

    ヨーロッパや東南アジアの国々では、美術館で、歴史的ファッションを見ました。

    特に、オーストリアでは、きゅうっとした体型での服を工夫していたのが感銘を受けました。ベネチアでは、カーニバルの時で、仮面も買い、綿やシルクのきれいな品をたくさん買いました。インドネシアでは、バティックを着てみるととても着やすく、色染めの体験もしました。

佐々木 (職員):お世話になっております。手間をかけてやっておられるなあと思います。

  オンラインでのGSはお手伝いさせてもらっています。

濱田:神戸に住んでいるので、以前は亀岡に2時間半もかけて来ていました。なかなか大変でした。今は、オンラインなど、ハイブリットな方法で継続できていますし、生きがいになっています。

亀田:では、本題に入ります。濱田さん、スタートをどうぞ。

濱田:20232月に開催させていただき、もう7月で、驚きます。娘のゆかこも参加してくれて、「ありがとう」と言いたいです。

   今日は、その他に、吉川さんや、もうひとりの友人も参加の予定でしたが、別件のため。参加出来なくなりました。今日は、 「写真が語るアメリカ民衆の装い(その5)―1890年代の民衆の生活文化を垣間見るー」で、このシリーズは今日で最後になります。次回は、20242月に予定しています。

   

 

 

講座の内容

 

本講座は、本書に掲載された1890年代の写真分析がテーマである。J.セヴラ女史は本章では52枚の写真を紹介・解説している。

 

本書に掲載された1890年代の52枚の写真の写真技術は、これらのうち、16枚はGlass-Plate-Negativeであり、残りの36枚は、未記載である。本日は、これらのなかから11枚の写真を紹介・分析する。

 

1890年代のアメリカでは、男子服のみならず、女子服もコートやケープの外套類やシャツブラウスやスカートなどのアイテムの大量生産が可能となり、デパートが増加し、小売カタログ市場が発展した。本研究では女子服を部位別・服種別にフランスのファッション雑誌La Mode Illustrée”およびLart et la mode掲載のファッション・プレートに観られる衣裳と比較・考察する。

さて、このような社会背景は、アメリカのファッションにどのような影響を及ぼしたのであろうか。J.セヴラ女史の見解をまとめてみよう

1880年代に引き続き、郵便小包制度が発展し、モンゴメリー・アンド・ウォード社(1870年)やシアーズ・アンド・ローバック社(1893年)は、カタログ・ショッピングに成功し、地方無料配達制度は、カタログ・ショッピングとタイアップして、1896年以降に効力を発揮した。

 

1890年代は、1880年代に流行したバッスル衣裳から現代衣裳に近いものへと変わっていき、衣服の歴史を語る上で重要な過渡期である。この時代に既製服に対する需要が一般化し始め、女性の衣服に大きな変化をもたらし、衣服の価値観も変わった。装飾の凝った衣服からよりシンプルな形へ移行していくのである。ライフスタイルの変化が確実におこり、1人がたくさんの衣服とその種類を持つことが経済面からも可能になった。ファッションの発信源としてパリはいまだ強い影響を与えるものではあったが、腰を細く締める傾向は、アメリカではこの時代においてはあまり見られなかった。

 しかしながら、家庭は依然として生産の場であり、消費の場へと移行してしまったわけではない。大量生産により、安価な既製服が市場に出回っていたが、多くの主婦はパターンとミシンを駆使して、家庭裁縫によって、より最新の衣服を手に入れ、節約して暮らした。

 女性が社会に出て、仕事に従事したり、スポーツを楽しんだり、自転車に乗ったりするようになると、簡素で、機能的な衣服に対する大きな要求が出てきたのである。そこで、登場したのが、新しいアイテムのシャツブラウスである。このブラウスはあまりフィットしなくてもよかったため、家庭で容易に作ることができ、既製服を買う必要はなかったようである。

 セパレートのスカートも家庭で容易に縫うことができ、綿の家庭着や化粧着やマザーハバード

も家庭で、一日で、作ることができたようである。こうして、19世紀末のアメリカの主婦は、一方で節約して、他方で、既製服を買い求める、という合理的な暮らしをしていた。

 女性用のオーダー・メイドのスーツは紳士服の仕立て師によって作られた。

 労働に携わる女性は、写真247(看護婦)、写真242(工場の女子労働者)、写真262(黒人の看護婦)に見られる。写真268には、自転車に乗ろうとする女性が見られる。これらの写真についてのJ.セヴラ女史の解説は、衣服と労働、衣服とスポーツという視点から、実に明快で、含蓄がある。

 本章では、大量生産・大量消費社会に向かう、1890 年代の過渡期の様相が、中流階級から下層階級の人々が写った52枚の写真に実にリアルに、興味深く映し出されている。やがて訪れる20世紀を予測しながら、一枚一枚の貴重な写真から、アメリカ服飾社会史を読み解いて行くのは、限りなく奥深く、楽しいものである。

                          (濱田雅子記)

 

質疑応答

亀田:まず、丸山さんのあいさつをどうぞ。

丸山:丸山と言います。大阪から参加しています。3月までは、鹿児島の大学で4年間

   教鞭を執っていて、関西の大学でも旅行学研究などを教えていました。林業もやっていて、二酸化炭素排出権を販売予定です。

濱田:今の生活は以前と変わりましたか?

丸山:4年間通った鹿児島国際大学の学生が、卒業後、京都大学大学院に入学できたことがうれしかったです。

 

亀田:では、どなたからでも感想をどうぞ。

田尻:ありがとうございます。アメリカの男性が家族と写真に映っている写真がありましたが、男性はビジネススーツで、暑くなかったのかなと思いました。

濱田:アメリカ本土のビジネススーツは、少し、ヨーロッパとちがっていて、サックジャケットというのを着ていました。ふだんに着るジャケットで、くだけた麻や綿を使用しています。「暑くないか?」という質問でしたが、調べておきますね。

張穎:おもしろかったです。シャツやブラウスがありましたが、それを着て自転車に乗れるというような。

濱田:シャツやブラウスもおしゃれですが、スカートの裾に装飾として襞かざりがあります。

児嶋:袖のふくらみが大きくありますね。

濱田:1895年~96年は巨大な袖がはやりましたが、日常生活は不自由で短期間のみはやったようで、だんだんスリムな袖になって行き、1900年には機能的になって行きました。ヨーロッパのルネッサンス期には、大きな袖がはやり、王政復古期には、円い袖がはやりました。短期間の流行をくりかえしたようです。19世紀になると、流行は長期間続いたようですが、不自由さから、機能性を求められてきました。

亀田:肩のパットは細く小さくなっているのでしょうか?肩が上がっているようですが。今は、パットも入れていないようですが、

濱田:袖付け線がネックより内よりになっていて、パットではなくて、つめものを入れています。手の動きはどうなのかという疑問がありますが、王政復古期には、ドッジボールみたいに膨らんだのが、権力の表示だったようです。そのふくらみもだんだん下の方に移動してきました。

   西洋の袖の歴史をみていくとおもしろいと思います。

亀田:ウエストを絞って居る方が全体のラインとしてはきれいですね。

濱田:看護士さんが座学式でいますが、19世紀は細いのが美しいと言われていました。

   スリムな人もコルセットをつけて、痛みの出るぎりぎりまでに保っていたようです。

亀田:ヨーロッパの貴族の娘の画像ではしょっちゅうしめていますね。

橋本:体温調整をはかるために、そでの長さに注目してきました。なぜ、夏なのに首まで覆うような袖にしていたのかと。S字は、女性の体型の魅力だったと思いますが、そでは見せるのかと、また、ジェンダー視点から見るとどうなのか、また、自転車に乗る女性の服装は、胸やおしり以外、どういうふうに変わって行ったのかと思いました。

    また、若者は首から上がふくよかな服で、年配の人はそでだけふくよかに見えます。

   袖の長さもなぜという疑問がわきます。大体手首まで袖がありますが、年齢に応じて肌を露出し、短くなるのかなど。

濱田:当時は、半袖が無いようです。今日も半袖で見せていこうというのはないようです。ミトンもはめ、長袖で肌を見せないのは、キリスト教的かもしれません。

   宗教上の理由もありますが、権力の象徴として、肩から膨らます方法がありました。1830年代になると、ドレスリフォーム運動が起き、ほんの一部の女性ですが、反ジェンダーに立ち上がりました。その後、権威の象徴をそでに持っていくようになりました。

    その後は、肌をあらわにしなかったり、大きいものにこだわり権力の象徴としたりしました。

橋本:ヒンズー教でも、イスラム教でも、キリスト教でも肌をあらわにしてはいけないという教えはあります。会食や、いろいろな場面への装いは、国を跨いでも共通の面もあると思います。

濱田:田尻さんが言われていたように、見学に行かれるのもいいですね。美術館の展示が在る場合は。

     このようなグローバルセッションで、いろいろな立場の方のご意見が織り込まれるコミュニケーションは、価値があると思います。

    また、濱田雅子の服飾講座『服飾から見た生活文化』シリーズ報告集のペーパーバックと電子本が発売されましたら、ご案内させていただきますので、ご購入をお願いします。25回分(2013-2023年)の講座の記録を収録しています(下に表紙図版掲載)。

亀田:みなさん、ありがとうございました。次回は、20242月です。また、ご参加ください。

 

田尻さんへ(濱田より追記)

19世紀のアメリカの男子服について、アメリカ服飾社会史研究会会報No.7より、下記に引用いたします。

 

   近代アメリカの写真に見る男性服の変遷(18401900年)

―ジョーン・セヴラの研究に基づいて―

                                 濱田雅子

本発表では、ジョーン・セヴラ(Joan Severa)の著書Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and Fashion, 1840-1900, Kent State University Press, Ohio, 1995”に基づいて、1840年から1900年に至るアメリカの男性服を10年間隔で紹介・考察した。本書のまえがきでは「本研究の根幹をなしているのは女性の服の流行に関する情報であり、情報量のずっと少ない男性と子どものスタイルは、ほとんどの場合付随的にしか推定されていない」(p.xvii)と断わられている。だが、ジョーン・セヴラは、このような限られた資料状況にもかかわらず、男性が写った90枚の写真資料を駆使して、男性ファッションの詳細を論じている。本書に掲載されている男性服の写真と解説から、イギリスから導入された男性服が近代アメリカにおいて、変容を遂げていく様相について、以下の知見が得られた。

写真1はHistoric Northampton所蔵のダゲレオタイプの写真で、撮影年代は1847-50年である。「3人の紳士(氏名は不詳)は、みな同じように、1840年代の窮屈なフィットのコートを着用している」(Joan Severa, p.57)。このコートはフロックコートと呼ばれる。フロックコートの起源は17世紀ヨーロッパのジュストコールである。17世紀のヨーロッパで、農民の農作業着、あるいは軍人の軍服や貴族のコートとして用いられてきたジュストコールは、18世紀から19世紀になると、朝の散歩用に歩きやすく前裾を大胆にカットしたフロックコートや乗馬に適した形に改良された燕尾服となり、アメリカに伝えられる。

1840年代のぴったりした袖とズボンは、50年代になってもよく着られていた。1854年には、もっと大きく裁断されたゆったりしたコートやフロック他のあらゆるスタイルの男性服が登場した。特に袖はより広くなり、40年代より高い位置にアームホールが取り付けられた。ラペルもまたさらに幅広くなり、首の後ろは立ち襟ではなく、折り返されていた。

写真2はHistoric Northampton所蔵のキャビネット・フォトグラフで、撮影年代は1860年頃である。「3人の若い男性が、珍しくうちとけた様子で、スタジオの装置らしき場所で写真に写っている。・・・・ゆったりフィットしたサックジャケット、60年代初期のたっぷりしたズボン、さまざまなスタイルの粋な帽子。このようなポーズは、当時の男性服の正確な証拠を提供してくれる」(Joan Severa, p.214)

サックジャケットの起源は、イギリスのラウンジ・ジャケットである。フロックコートやモーニングコートに対して、ラウンジ・ジャケットと呼ばれたイギリス起源のジャケットの形は、直線的なスタイルであり、燕尾がない。フロックコートの切替線やダーツが曲線で結び合っているのに対して、ラウンジ・ジャケットは直線となり、切替線の数も少なくなっている。曲線的な裁断のフロックコートは手仕事で作られなければならなかった。直線的で切替線の数も少ないラウンジ・ジャケットは、既製品として大量生産するのに適している。1840年代からサックコート(イギリスで言うラウンジ・ジャケット)がアメリカにも現れ、最初は散歩などに着るものであったが、1870年代には平常着となってビジネスマンが着る背広服の上着となった。今日まで、既製品のビジネス・スーツとして大量生産されてきている。

1880年までにゆるいサックコートのすべてのなごりは流行から消えた。男性のスタイルも女性と同様に、細くぴったりとしたスタイルが好まれるようになり、年を取った男性のためのサックコートスタイルも、丈は長く裁断されたが、細いラインであった。

写真3The State Historical Society of Wisconsinに所蔵されたガラス乾板の写真で、撮影年代は1891年である。「この写真は結婚写真であり、・・・新郎はモーニングスーツを見事に纏っている。丈の長い暗いコートとストライプのズボンを着用し、きちんと糊の効いた白いシャツの前面に、細いネクタイが結ばれている」(Joan Severa, p.484)。

 1890年代の一般の男性は大量生産で作られた衣服を着ていた。この時代に理想的だったのは窮屈にも見えるスタイルだった。日常用のサックコートも正装用のコートであるモーニングコートやフロックコートも同様にぴったりと作られていた。

 最後に、本書で強調されている近代アメリカの服飾習慣のヨーロッパとの違いに言及しよう。明らかに、アメリカ人の服装の習慣は、フランスとイギリスのファッション情報を基準としていた国々の服飾習慣とよく似ていた。ただしそれは、中流層と上流層には、大西洋をはさんだヨーロッパとアメリカのどちらでもあてはまったが、下流層では話が違っていた。なぜなら、イギリスやヨーロッパ大陸諸国には、昔から続く階級制度が存在したからである。アメリカは、上へ昇っていける希望がある点がヨーロッパと違っていた。下流の人びとが中流層になることは禁じられていなかったし、中流層は制限なしに上へ昇ることができたのである(Joan Severa, p.25)。